「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から、マスターがいつもどおり礼儀正しい挨拶でお客を迎える。
ここは、とある隠れ家的なお洒落なバー。
「今日は一段と寒いですねえ。あ、お願いします」
フレデリック(仮)はコートを店員に預けて、いつもの奥から2番目の席に座る。
「今日はお一人ですか?」
「いや、後から彼女が来ます」
フレデリック(仮)は、差し出された温かいお絞りで手を拭く。
微かに香る石鹸の匂いが、この店の心憎い気配りだ。
「どういたしましょうか?」
「いつものボルドーをお願いします」
「かしこまりました」
一口含んで、メルローの芳醇でまろやかな香りが鼻腔を抜けていく余韻を楽しむ。
サンテミリオンの珠玉の逸品だ、心して呑まないとワインに申し訳ない。
しかし、今晩のフレデリック(仮)は、どことなく落ち着かなかった。
実は彼には今晩、一世一代の大仕事が待っていた。
”今日こそ、彼女にプロポーズするんだ”
そしてスーツのポケットの中に手を入れ、エンゲージリングケースのビロードの感触を確かめる。
給料3か月分の勲章が、いつもはのんびりとした彼の心を奮い立たせようとしていた。
しかし、遅いなあ…。
仕事で遅くなるとは前もって聞いていたけど、早く来ないかなあ…。
彼の逸る気持ちを、サロンから聴こえてくるピアノの生演奏が、唯一落ち着かせてくれていた。
その時、ブブン、ブブン、ブブン、と携帯のバイブレーダーが震える。彼女からのメールだ。
”あとちょっとで仕事が終わるから、もう少し待って”
そうか、忙しいんだね。しょうがないか、もう少し待とう。
パシッと携帯を閉じ、グラスを一気に空ける。
「マスター、もう一杯。そして、なんか陽気な曲をお願いしていいですか?」
「かしこまりました」
アップテンポのジャズの音色が、店内の隅々まで広がっていく。
どこかで聴いた事がある曲だが、名前が思い出せない。でも、そんな事は関係ない。
一曲弾き終わった時、他の客に邪魔にならないよう、軽い賞賛と拍手をピアニストに送る。
いい曲だった。高揚感から再び心が奮いあがった時、玄関のドアが開いた。
ゆっくりと、フレデリック(仮)は振り向いた。
「待った?、ごめんなさい。」
いや、ご苦労様。
忙しかっただろうに、来てくれただけでホントに嬉しいよ。
「寒かっただろう、ゆっくり呑もうか」
仕事で顔が疲れているだろうに、いつもより5割増しできれいに見えたのはなぜか分からない。
きっと、名前が思い出せないあの曲のおかげで、心が高揚したせいだろう。
あとは、自分の気持ちの全てを、このリングとともに彼女に渡すだけだ。
「乾杯」
そして、とあるバーの夜は更けていく…。